片桐牛乳店物語 第2話

 子牛1頭からスタートした、初代勇士英。
子牛も乳牛に成長すると、長男賢次(現会長)は小学校から帰ると搾った生乳の入った牛乳缶を自動車の荷台に積み、信濃川左岸近く(大島地区)にあった牛乳処理工場へ運ぶことが日課でした。当時は、車も少なく道は砂利道ばかり。 天気が続くと砂利が乾き、自転車のタイヤが横に流れ、自転車もろともひっくり返り、大切な生乳は道路に流れ、膝に血を滲ませることが何度もあったそうです。 勇士英は、朝は牛乳の配達、昼は新規のお客様を獲得するための営業に奔走しました。
 牛乳が「栄養の象徴」として価値を高めていった時代、その歩みは時代の鼓動とともに加速していきました。

「顧客が400件になったら、自分たちで処理工場を作ろう!」

 その目標に向け、家族は一致団結して働きました。100件の節目には長男賢次の大好物のジャムパンを買って労ってきれたことが何よりもうれしいご褒美だったそうです。
 そして昭和28年、念願の処理工場を持ち「片桐牛乳店」として本格的にスタート。
乳牛も15頭ほどに増え殺菌設備、冷却装置、ビン洗浄機などすべてが揃った小さな工場で、新しい一歩が始まりました。
 長男賢次は学校から帰ると、牛の放牧や処理工場の手伝いに追われながら、少しずつ責任を背負っていくのでした。

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